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幼少期

幼少期の一番の思い出は、父親がウルトラマンの人形をお土産に買ってきてくれたことです。なぜ覚えているのかといいますと隣に母親が一緒にこちらに向かって歩いてきたからだと思います。両親仲が良いのが子供にとって一番うれしい事です。夫婦喧嘩が多かった家庭でしたから、おそらくそのようなシーンを強烈に覚えているのだと思います。

幼稚園はキリスト教系で毎朝お祈りをしていたように思います。当時はお迎えバスというものは一般的ではありませんでしかたら、独り歩いて幼稚園に行っていた事を覚えています。そしてある通園の日。事故は起きてしまいました。

いつも通り大通りを歩いていると急に車が左折してきたのです。減速なし....私は真正面から跳ね飛ばされてしまいました。そしてあろう事が私の足(ちょうどふくらはぎあたり)を、ドカン、ドカンと。乗り越えてしまったのです。

私はそのままうずくまっていました。後日談ですが目撃者の方は「えらいことが起きた」と思ったそうです。

救急車が到着し救急隊員の人が助けにきてくれた頃にやっと状況を把握し私は大泣きしていました。しかし。当時は強くあるのが男子たるものという価値観であったのか歩けると強がっていたのも覚えています。実際に救急車の中で「ほら、足動くよ」と動かして見せていた事を覚えています。

幸い近くに整形外科の病院があったため、ほどなく到着しました。すぐにレントゲン撮影、そして診察です。先生は首をかしげています。そして私の足をまじまじと見て、タイヤの跡はあるね。そしてこういったのです「本当に車にはねられたんだよね」と。そして「車の跡があるか..」と独り言をいっています。

骨は折れていませんでした。そしてほどなく歩けるようになりました。後で足が痛くなる事もありませんでした。無傷...

あとから病院にかけつけた母親は笑っていました。あんたがボケっとしてから、みたいな事を言われて、絶対にそれは違うと懸命に否定していた事を覚えています。

私には姉がいました。そして幼稚園ではよく助けてもらっていたそうです。私が姉を追いかけて女の子の中で遊んでいたから、男の子からいじめらていたそうなんです。私は覚えていませんが母から教えてもらいました。そんな幼稚園時代でした。

小学校の頃

小学校の頃、覚えていませんが落ち着きがなかったそうです。そして精神力を鍛えるために剣道を習いなさい。と、剣道部に入部。練習でうさぎ跳びが苦手できつかった思い出があります。今は学校で禁止されていますが当時は皆一番を目指して必死でうさぎ跳びをしていました。

剣道は夏と冬がきつかったです。夏は汗だく、冬は裸足でした。練習はきつかったので友達といっしょに「いかにサボるか」を研究していましたが、そんなのはすぐ見抜かれます。サボり精神がある生徒は「掛かり稽古」といって先生にひたすらいどむキツイ稽古に駆り出されます。分かりやすくいいますと野球の千本ノックのようなものです。そしていつのまにか真面目に取り組むようになっていました。しかし好きだったのか?といわれると好きではなかったように思います。当時の風習として一度始めた事を辞めるとかはありえない状況でしたので仕方なかったのかもしれません。もっと自由にあそびたかったという思いが今でも残っています。

日曜日はキリスト教の集まりがあり基本そこに参加でした。遊びたかったのですが教会でじっとしていなければいけませんでした。幸い同じくらいの年の子が一人いましたので孤独ではなかったです。ただ、平日は剣道、日曜日は教会。自由な時間があればどんな事に興味をもってどんな人生になっていたのかなと...意味はないのかもしれませんが考えてしまう事があります。

父はほとんど家にいませんでした。夜は遅く日曜日もいません。仕事はちゃんとしていましたがそれ以外の時間はギャンブルをしていました。それを知ったのは小学生の高学年になってからです。そして母親に暴力を振るっていました。一度、母は大けがで入院して暴力はなくなったそうですが、その時は親戚一同の集まりになりました。当然といえば当然です。しかし離婚はキリスト教では大罪。けっきょく離婚はせずです。父親はいくらか改心したようですがギャンブルは止まなかったようです。いちど私の貯金箱のお金を貸してくれという状況もありました。本当になさけなかっ記憶があります。

母親は逆に朝から夜まで働き私達を必死に育ててくれました。母親がいないと生きていけないと肌で感じていましたから母親の言う事は絶対でした。姉も私もさからう事はほとんどありませんでした。

つづく...